2011/07/19

なでしこの勝利に思う

 日本女子サッカーが金字塔をたてました。世界ランク1位のアメリカを破っての勝利。本当におめでとうございます。
 個人的には、安藤、熊谷の両選手が筑波大学の学生ということで、母校の選手の活躍に喜びも倍! 昨日は、みんなで喜んだ1日でしたね。

 私が印象的だったのは、まず選手がよく走ること。高いモチベーションでプレーしているように見えました。どうでしょうか。みんなサッカー好きなんだろうな。そして愛したサッカーから愛されているんだろうな。そんな気がしました。彼らが低賃金のパートで生計をたてながらサッカーに取り組んできたのは周知の通り。あらためてモチベーションとお金は関係ないことが証明されたように思います。

 次いで、インタビューに答える選手の話し方が実に自然であること。聞き手の質問に、的を外すことなく、偉ぶることなく的確に回答していました。これがちやほやされている若者にはなかなかできません。自分の世界で答えてしまう。失礼ながら男子のプロにはよく見かけます。多額の収入を得ると、どこかおごりがでるものですが、そうじゃないのが自然なコミュニケーションにつながっているのかもしれません。

 可笑しかったのは、表彰式で日本サッカー協会の小倉会長が選手一人ひとりと握手する場面。会長はハグ(抱擁)を求めるのに対し、多くの選手は会長との抱擁を喜んでいるようではありませんでしたねえ。まあ、若い女性がおじさんと抱擁が好きでないのは分かります。でもそれ以上に「私はあなたのお世話になっていない。なのにいいところになると突然でてくるのか」という様子に見えました。女子サッカーが男子以下の扱いを受けているのは各国同じでしょう。だから選手から見ればマイナスのカレンシーをさんざんもらってきている。会長が本来とるべきは、なれなれしい態度ではなく、固い握手と心のこもった謝辞だったはず。カレンシーの交換を阻む上位者の典型的な言動が見られたように思います。

 対して、佐々木監督が信頼されている様子も印象的でした。報道によると彼は選手を上から目線で見ないのだそうですね。ひとりひとり尊重し、よくコミュニケーションをとるのだそうです。私の研修に参加される男性管理職から「女性部下の扱いに困っている」と聴きますが、これからは「佐々木監督を見よ」と言えます。「女性部下」は言い訳にできませんよ。女性に限らず、若者や外国人のようなマイノリティーが含まれるチームを運営するときは、相手の尊重から始めることを忘れてはいけませんね。

 今日は職場でもなでしこの話で持ちきりですね。本当におめでとうございます。

2011/07/10

刑事コロンボ

 ピーター・フォークがなくなり、先週「刑事コロンボ」が再放送されていました。私が小学生だった頃、日本で放送が始まりました。また昨年ずっと再放送をしていたので、ずいぶん観たと思います。それでも今回の再放送のなかで「別れのワイン」は観た記憶がなかったなあ。

 ワイナリーの経営者は兄、オーナーは弟。ワインを愛し、20年以上ワイナリーに全勢力を傾けてきた兄と、会社だけを相続し、しかし経営は兄に任せて遊びほうけている弟。金に困った弟が、会社を得ると行ったのを聞いた兄が、思わず弟を殺してしまう。そんなドラマの始まりでした。例によって完全犯罪に至るはずですが、コロンボは早々に誰が犯人か見抜いてしまいます。そして、その裏付けをとっていく。

 なぜ、コロンボは犯人に早くから目星をつけられるのか。それは相手の置かれている立場にたって状況を見ているからに他なりません。この場合、兄は会社にすべてを投入してきた。それだけ投資すれば、何らかの形で元をとりたいし、そのチャンスを奪われるのは許し難い。弟に対しても同様。ずっと面倒みてきたのに、恩を仇で返すようなことをする(と兄は思っている)。だから、兄が弟を手にかけるのは不思議ではない。このドラマがいいのは、容疑者の兄がどう見ても善人に描かれている点。現実は、性格がいいかなど関係ないということが強調されています。そう、殺人の動機は、かならず周囲の状況にあると考えているわけです。

 そして、いつものコロンボのスタイルで相手の懐に入っていく。まずは相手を尊重するところから。コロンボはワインを勉強して容疑者宅に赴き、出されたワインを利き当てます。相手は驚き油断ならないと思っても、かえって心にスキができる。このカレンシーの交換がコロンボならではです。古畑任三郎にも通じる部分であり、「古畑任三郎」がよく描ききっていない部分だと思います。「かみさん」もそう。今回古いドラマを見て気づいたのは、ベビーシッターがどうとかいって、子どもがいたことになっているのですが、後の作品には子どもはいないことになっている。まあ、かみさんの話は、やはり自分が女房の尻に敷かれる男を演じて下手に出る戦術だったんだなあ。いずれにしても、コロンボが容疑者に敬意を払いつつ、相手から真実を引き出してしまう術に、あらためて引きずり込まれました。

 さて、部下から何かを引き出したいのでしたら、コロンボを観るのは悪くありませんよ。巧みな交換にヒントが見つかるはずです。まずは、部下に敬意を払うこと。真剣に話を聴き、真摯に応え対応すること。それだけで部下の態度は変わると思います。

 「刑事コロンボ」、ビデオでも借りられるんですね。でもコロンボの吹き替えは、小池朝雄がいいな。

2011/07/08

ケネディ家のひとびと

 出張先で海外ドラマ「ケネディ家の人々」に目が釘付けになりました。ちょうどキューバ危機に直面し、ホワイトハウスは緊張に包まれています。国務省、軍部、大統領側近がそれぞれの立場から、大統領に決断を迫ります。一部のメンバーは先制攻撃せよと言う。ソビエト共産党書記長は必ずミサイルを撃ち込んでくる、「フルシチョフはそういう(暴挙に打って出る)男です」。対してケネディはフルシチョフの背後の強硬派を意識します。書記長は、クレムリン強硬派を抑えられるだろうかと。

 このような考え方は、影響力の法則に通じるものです。相手の性格を考えるのではなく、相手が動かなければならないような状況を考慮する。そのひとつひとつに対処できれば、こちらの意に沿う結果を得られるというものです。

 このケース、国家のトップとはいえ、関係者の動きを抑えられなければ、自分の意思に反する決断をしなければならないこともある。フルシチョフ自身は好戦家でないことを知っているケネディは、相手が不本意な決断をしないですむ方法を探っていきます。そして、フルシチョフが強硬派を説得できるような情報を提示していく。たとえば、演説ではアメリカ国民に合衆国は腰砕けではないといいながら、こちらから先制攻撃することはない、とも示唆する。そうして互いに相手が関係者に対して使えるカレンシーを渡し、交渉を成功に導いていました。

 相手の性格よりその背後を見る、背後を動かせるカレンシーを相手に渡す。影響力が高い人がとる戦術、さすがは国のトップだと感心しました。

2011/07/06

復興担当大臣が渡した負のカレンシー

 今日は、松本龍復興担当大臣の辞任が話題になりました。ご本人のことはよく存じませんが、親の遺産(地盤)とはいえ20年も国政に携わってきたベテラン、昨年の名古屋議定書を交渉の末にまとめた功労者、それなりに社会的な責任がおありな方が、またしてもこんなことをしてしまいました。残念としかいいようがありません。

 私はこの人が「影響力の法則は、カレンシーの交換にある」ことを知っていたらなあ、こんな馬鹿なことにはならないのになあ、と思います。すなわち、相手を動かし味方につけたければ、相手が価値ある何かを差し出さなければならない。逆に相手がいやがることをやれば、自分の進路は妨げられる、ということです。影響力の法則に則らなくても果たせる役割はあります。自分ひとりになっても完遂できるような業務、つまり比較的単純な仕事です。しかし、今回の復興支援のようなすべての国民が当事者としてかかわらなければ果たせないようなプロジェクトであれば、そうはいきません。たとえば、消費税率を大幅に引き上げるのを、国民の理解なしに進められるはずがありません。多くの人たちに犠牲、協力を頼もうと思ったら、それはひたすら正のカレンシーを渡すしかありません。

 カレンシーといっても、お金や道路の建築ではないはず。負担が増えるが、子孫代々繁栄する世の中や、子供たちがワクワクするような夢を描くなど。また国民一人ひとりが復興に協力している、という責任感を感じることもカレンシーになります。誰でも自分が人や社会の役に立ちたいのですから。

 しかし実際の交換は、「見下した態度」と「辞任圧力」でしたね。本当にがっかりです。彼らはリーダーシップが人の上手に立つことだと誤解しているんじゃないでしょうか。彼らとは、一部の国政にかかわる人たちのことです。あんな口ぶり、サングラス、すべてがとんでもない誤解です。ヒトラーがリーダーだったと思っているんでしょうか?鳩山政権以来そのために国民の支持を失っていることに気付かなければ、いつまでたってもやってしまうでしょう。そりゃ、官僚は簡単には動きません。長年、自民党にコミットしてきた人たちなんですから。官僚の立場に立ってみれば、長年カレンシーの交換をしてきた信頼できる政治家と、突然やってきたこちらの言うことが分かるのかどうか不安な政治家では、対応が違ってしまうのは当然でしょう。外資に買収された日本の伝統企業で従業員が幹部の言うことを行かないのと一緒です。だからといって、切れてしまっては、負のカレンシーの交換になって、政治家はリーダーシップを失うだけですよ!

 こう書きながら、我が身を振り返って反省することばかりです。ひとつひとつできることをやるしかないな、と自分にも言い聞かせています。